夏目漱石の小説をテスト投稿

 次に内容と全く独立した。と云うより内容のない芸術がありますが、あれは私にも少々分る。鷺娘(さぎむすめ)がむやみに踊ったり、それから吉原仲(なか)の町(ちょう)へ男性、中性、女性の三性が出て来て各々(おのおの)特色を発揮する運動をやったりするのはいいですね。運動術としては男性が一番旨(うま)いんだそうですが、私はあの女性が好きだ、好い恰好(かっこう)をしているじゃありませんか。それに色彩が好い。

 人事に関する文章はこの視察の表現である。したがって人事に関する文章の差違はこの視察の差違に帰着する。この視察の差違は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差違を生ずる源になる。今の世に云う写生文家というものの文章はいかなる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別のできるような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えていると云うてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺(おじい)さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗(のぞ)けばどんなに見えるかと云う事を説明するのが余の義務である。

 だから長々しく敍景の筆を弄したものよりも、漢語や俳句などで、一寸一句にその中心點をつまんで書いたものに、多大の聯想をふくんだ、韻致の多いものがあるといふのは、畢竟こゝの消息だらうとおもふ。要するに、一部一厘もちがはずに自然を寫すといふ事は不可能の事ではあるし、又なし得たところが、別に大した價値のある事でもあるまい。その證據に、よく敍景などの文をよんで、精しく檢べて見ると、隨分名文の中に、前に西向きになつて居るものが後に東向きになつて居つたり、方角の矛盾などが隨分あるけれども、誰もそんな事を捉まへて議論するものも無ければ、その攻撃をしたものも聞かない。で、要するに自然にしろ、事物にしろ、之を描寫するに、その聯想にまかせ得るだけの中心點を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。

 尤(もっと)も今度載(の)せる「土」の出来栄(できばえ)は、今から先を見越した様な予言が出来る程進行していない。最初余から交渉した時、節氏は自分の責任の重いのを気遣(きづか)って長い間返事を寄こさなかった。夫(それ)から漸(ようや)く遣(や)って見様という挨拶(あいさつ)が来た。夫から四十枚程原稿が来た。予告は此原稿と、氏の書信によって、草平氏が書いた。今の所余は「土」の一篇がうまく成功する事を氏のために、読者のために、且(かつ)新聞のために祈るのみである。